Firework

真夜中に、息ができなくなって飛び起きる。

誰に押さえつけられたわけでもないのに、はっきりと首に手をかけられた感覚が残っていた。目覚めてからも動悸が激しいままで、まるで心臓が喉のあたりまで飛び出してきたみたいな感覚だった。

酒はやるけどタバコはやらないし、薬なんてもってのほか。……なのにこうして、過去の嫌な記憶が、私の首を締めに、心臓が破裂させに夜中にやってくるのだ。

過去に受けた苦しみに追い詰められそうになったとき、……私はいつも、ブチャラティの事を思う。
起きてても寝てても、首根を捕まれ呼吸を奪われるような人生が続くだけだったはずの私を引っ張り上げたのは、ブチャラティだった。
ブチャラティが与えたのは、平穏な(と、呼んでいいかはわからないけれど、とにかく理不尽にゴミみたいに扱われることのない、)生活と、自分がココにいてもいいのだと思わせてくれる肯定だった。彼のそばにいると、私は自分が少しだけ、より良いものになれる気がする。その感覚こそが、尊厳というのだろう、生まれて始めて自分にからめて考えたその単語、その感覚を、ブチャラティが与えてくれたのだ。

彼はいつだって私を見てくれていた。失敗するときも、うまく行ったときも。やりすぎれば叱ってくれるし、うまくやれたら褒めてくれる。ブチャラティの目に恥ずかしくない人間になりたくて、この世界で少しでも彼のためになる何かがしたくて。

今の私の価値観をかたち作ったのは、ブチャラティだった。

そして――明日の朝になれば、彼の誕生日だ。
お祝いの一言を彼にささやけば、きっとブチャラティはそれを静かに聞いて、そしてかすかに私に微笑んで礼を言うだろう。私だけにブチャラティがくれるものがある――それがどれだけ、幸福なことだろう?

ブチャラティの幸せを祈る行為が、私の暗い夜を照らすのだ。過去の記憶に足をつかまれ泥沼に引き戻されそうになった夜でも、きっと喜ぶ顔が見れると思えば息ができた。
ベッドに再び倒れ込む。もう首を締められる感覚は遠くなり、冷や汗はすぐにはひかないけれど、目を閉じても怖くなくなる。

私の人生の真ん中には、ブローノ・ブチャラティが立っている。
そしてブチャラティの人生のその端っこにも、私がいる――それが事実だということ、ただそれだけに心を癒やされた私は、そっとため息を吐いてからもう一度眠りについた。

ただ、それだけで良かったはずなのに。

誕生日当日といっても、ブチャラティが仕事を休むわけない。街を回って集金をして、なんてルーチンワークもきっちりこなすのだ。
ただの偶然だとわかっているのに、今日の集金は私とブチャラティの組み合わせで出る日だった。……これはラッキー。
でも今日の集金先は、赤いランプが妖しくフロアを照らす娼館だ。……これはアンラッキー、私にとって。

「……ここで待ってろ」

私が運転してきた車を、ブチャラティが道端で止めさせた。気遣いなのかなんなのか、ブチャラティは娼館の集金に行くときには、私を建物の中に入れさせようとはしなかった。……一度だけ足を踏み入れたときに、勘違いした客に私が乱暴に触られたことを、ブチャラティはひどく気にかけていた。

「……わかった」

でもこっちとしては気が気じゃないのだ。
あそこで働く女の人達は、みんなうっすらブチャラティの事を気に入っている……と、思う。場をおさめるのも得意だし、顔も整っているし、絶対に彼女たちを傷つけず、それどころか傷つけるようなヤツがいたらそいつに痛い目見せるのがブチャラティなのだから。

そんなやつが誕生日当日にやってきたら、絶対みんな……祝いたくなるに決まってる。

(……ほらみろ、そうだ……)

焦れながら車の中で待っていた私は、店の扉から出てきたブチャラティの姿を見て全てを悟る。彼の腕には女の子たちが腕を絡めていて、その下には肘に通した紙袋――きっと何かのプレゼントの箱をいくつか持たされた状態で出てきたのだ。

「ありがとうね、ブチャラティ……そしてBuon compleanno!」
そう言って、一人の女の子がブチャラティの頬にキスを落とした。柔らかな表情で微笑んで礼を言うブチャラティ、その顔には穏やかさしかないわけだが、彼女の方はそうじゃあなかった。
なんでわかるかって? あの人が私と同じ目をしているからだ。
届かないとわかっていても、でもブチャラティに焦がれた目を向けずにはいられない、さみしい目――。同じだ、私と同じ目をしていた。
それを見ていたら苦しくなって、私は思わず目を閉じる。

「……ずいぶん熱烈なお祝いだったね」
バタン、とブチャラティがドアを閉めて助手席のシートに座った瞬間、思わずそんな言葉が漏れた。その声の刺々しさに顔をしかめたのは私だけで、ブチャラティは少し不思議そうな顔をするだけだった。それから、ああ、と言葉を続ける。
「いや……ちょうど中で酔って暴れてる客がいたから、そいつをどうにかしてやったんだ……ただの客じゃあなくて違う組織のヤツだと名乗ってたから、対応に困っていたらしい」

裏口から放り出したが、実際のところただのチンピラだなありゃあ、ブチャラティはそう囁いてちょっと笑った。それに口角だけを持ち上げて返してから、続ける。

「……口紅、頬にガッツリついてるよ。帰る前に落としていかないと、みんなにやいやい言われるって」
「っと……すまない」

ブチャラティはすぐに頬を拭った。すまない、その一言に引っかかるのは私だけだ。勝手に特別な意味を見出そうとしている私だけ。それにやいやい言われるのを気にしてあげてるわけじゃない。……ただ私がいやなだけだ。そう気づきながらも、それっぽい言葉、チームのリーダーの威厳を気に掛ける良い部下っぽい言葉を続ける。

「せっかくのパーティーなんだから、かっこいいブチャラティでキメていかないと」
「……かっこよくしたら、お前が嬉しいか?」
「何?」
「いや? ……車、出してくれ」

私は聞き返せないままこくんと頷いてから、アクセルを踏んだ。

彼は星だ。そうじゃなかったら太陽、月、そんなようなもの。とにかく空に浮かんでて、見てる人間が勝手にその光に助けられて、心をよせてしまうもの。手が届かないところも同じ。……いや、みんな手が届かないといいなと、勝手に思っているだけかもしれないけれど。きっと誰かしらが、彼の光の元に指を触れさせることができるのだ。それが自分じゃあないってだけだ。

くん、と鼻を鳴らすと、覚えのない香水の匂いがした。
それだけで簡単に、嘘みたいに泣きたくなった自分に気づいて驚いた。

隣にいるのに、ただただ遠い。そしてそんな風に感じるくらいには、自分はブチャラティに分不相応な欲を抱いていることに気づいてしまう。

「早く帰らなくちゃ……みんな待ちくたびれるかも」
プレゼントも料理もある、そう囁けば、ブチャラティがポツリと呟いた。
「……お前からのプレゼントも期待してていいのか?」
「期待……はしないで、でも楽しみにしてて」
「ずいぶん難しいことを言うな」

ブチャラティは笑った息を静かに吐き出した。それにつられるように微笑んでしまう。

車をアジトの近くの路上に到着させてから、ふっと息を吐いた。
みんながいる部屋に、パーティの準備やらをせっせとみんなが進めているところに戻らなくちゃと思うのに、この二人きりの空間を独り占めしたい気持ちが湧いて動きが鈍くなる。

「……ブチャラティ、あのさ……」

何を言うかも考えないまま、彼の名前を囁きながら助手席の方を向いてしまってから、ふと車の窓越しの視界に入った人影に目をすがめた。
顔を動かさないまま、低い声で囁く。

「……ねえ、店でやりあった相手って、でかい金髪で眉間に傷がある男?」
「そうだが……どうした?」

今説明した通りの男が、アジトのある建物のあたりを何か獲物を探そうとするかのようにうろついている、そしてそいつは、少しずつ車の方にも近づいて来ていた。

「ごめん、下げる!」
「な……うわっ」

運転席側にある、助手席のリクライニングを倒すレバーをとっさに引いた。決して優しくない勢いでブチャラティの身体がひっくり返るように下がった。

「……そいつ、今そこにいるから……狭い路地で銃でも取り出されたら困るから、ちょっと隠そうと思って」
「……頭下げろ、って言ってくれりゃあそれでよかったんじゃねえか?」
「確かに……ごめんテンパっちゃった……」
できるだけ口を動かさないようにしながら、助手席で寝転がった状態になってるブチャラティと会話を交わす。違和感がない程度に、怪しい男から視線も外さずに。

「……追う?」
「いや……ただのチンピラだ、放っておいてもいいが……アジトの場所がバレんのは面倒だな」
ブチャラティが気にかけているのは、ここが街の人々も普通に使う路地だということだ。何か暴れられて、周りに被害が出たら——彼が気にかけるのはそこだった。

「じゃあ少し待とうか……」
男が移動するのに合わせて、私は姿勢を傾けて自分の影で彼を覆い、窓からブチャラティが見えないようにする。
「上ごめん」
囁いてからブチャラティの上に覆いかぶさるようにしつつ、後部座席の荷物を漁ろうとする仕草でごまかしながら、リアウィンドウの方を睨んだ。独り言のように何かをつぶやきながら男が通りすぎて行くのを見つめる。

「もう行ったか?」
「ああ、……大丈夫、そう……」

返事をしながら声の方を見下ろして気づく。

ブチャラティが、私の真下からこちらを見つめていた。
自分で彼を寝かせておいて、自分で彼の上に覆い被さっておいて、私は今の今までこんなことになってるのに気づかなかったのだ。

黒い髪がシートの上に広がって揺らぐ。海のように濃く青い目が、下からじっと私を見つめている。今まで彼に見上げられることなんてなかったし、それが寝たままなんてことはもっとなかった。
なんてきれいなんだろう、そう思った瞬間体温が上がるのがわかった。星に焦がれるなんて滑稽だと思いながら、でも抱きしめてその熱を感じたいと思わずにはいられなかった。
なんだか泣きそうだと思った。星や太陽への憧れと同じだと、遠くで光るものを見て力をもらっていればいいと思っていたはずなのに、私はどうしようもなくブローノ・ブチャラティに人間として惚れていたことを、ようやく認めるしかなくなってしまったのだ。

「どうしたんだ?」

でもブチャラティの方はただ不思議そうな顔しているだけだった。万が一にでも私に下心があるとは疑ってもいないし、ドキドキもしていない顔だった。こんなに近くて、こんなにおかしくなってるのは私だけだった。

——ああ、これだからこの男が好きなのだ。いつでも他の奴らとおんなじように扱ってくれて、恋愛感情を向けられてるとも思ってない、フラットで優しい上司の顔したブチャラティが。
鼻の奥がツンとするのを無視して無理やり微笑んでから囁く。

「なんでもないの、ただ、あー……お誕生日、おめでとう」
「……ああ、ありがとう」

ブチャラティは、車の中でシートごと横に倒されながら、私に覆い被さられながら、ごく自然にこたえたのだった。
その誕生日を祝うまじないめいた言葉と共に、私の恋が終わったのがわかった。

……そのはず、だったのに。

「……お前のプレゼントってこれか?」
「これ……?」
今のどこにプレゼントの要素があったのか、私は眉をよせながらつぶやく。
「……下からお前の顔見ることはあんまりねえだろ……近くで見ると余計に、いい目だ、凄く」

どこか夢の中にいるみたいな心地でブチャラティが囁いた。そのまま彼は、私の方にそっと手を伸ばしてこちらの頬に触れた。
私はその仕草に、自分で倒したシートに腕をついた状態で、ひとつも動けないままブチャラティを見つめるばかりだった。逃げ出したい、でも初めてのやり方で柔らかに触れる彼の手のひらから、離れられない。

「オレは……お前の、仕事してるときの顔が好きなんだと思ってたが……違った」
頬を撫でる手は相変わらず柔らかで、温かくて、私の顔を全部包んでしまえるくらい大きい。そうして私に触れながら、ブチャラティは透明なやり方でささやく。

「……オレの隣にいるときの、お前が好きだったんだ」

思わず目を見開く。静かな車の中で、私が息を喉の奥につまらせた妙な音が響く。顔がどんどん赤くなっていくのがわかる。

「な……何、急に……」
「急か? ……急じゃあねえだろ?」

そう言ってブチャラティが私を見上げて微笑む。全てを見透かすような青の瞳が、私を見つめていた。
「最近のお前の態度を見てたら……誕生日に、愛の告白でもしてくれるもんだと期待していたんだが」
「…っ、」
「……オレはうかれて、いいんだろ?」
全部バレてたってこと? 私が心の奥に隠しておこうとしたもの全部? 
一瞬ショックを受けたけれど、ようやく理解してハッとなる。やけに目が合うのも、その意味に私だけ一喜一憂させられるような意味深な言葉ばかり呟いてたのも、……全部、自分に自信が持てなかった私が見ないようにしていただけの、ブチャラティなりの答えだったのだ。
ブチャラティは私のその一連の感情のゆらぎも全部わかってるとでも言うように笑って、私の名前を呼んだ。車の中、二人きりの空間にピッタリ誂えたように、柔らかで小さな、息の音ばかりのかすれた声。
耳元で響いたそれに思わず目をぎゅっと閉じてから、私はブチャラティの瞳が見れなくなってしまったまま、ふいと目をそらしながら頷く。

「ああ……」
嬉しそうな感嘆の声を漏らしてから、ブチャラティは私の真下から腕を伸ばして、こちらを強く抱きよせた。目の周りがカッと熱くなる、心臓がうるさくなりすぎてどうしようもない。今、私はブローノ・ブチャラティに抱きしめられている――。

「嫌だったら、どうか振り払ってほしい」
腕の中の私に言い聞かせるように、ブチャラティが言った。
「でも……そうじゃあねえなら、お前に……抱きしめ返してほしい」

なんで、なんでブチャラティがそんな不安そうな声を出すんだ! そう叫んでしまいたくなるくらい、お互いの体温の中に消えていってしまいそうなかすれた声だった。
私は上から包み込むように、ブチャラティを抱きしめる。まだ信じられなかった、私の頬が触れている熱いものが、彼の頬だと言うことが。でも何度もなでてくれる彼の手が、時折私の名前を嬉しそうに呼ぶ声が、それが現実なのだと言い聞かせて来るようだった。

「今日は……オレの誕生日、だよな?」
「……………そうだよ」
「……プレゼントを、ねだっていいか?」

少し怪訝に思いながら身体を起こす。ブチャラティは相変わらずシートに寝かされたまま、私を見上げて嬉しそうに目を細める。
そうして彼は、私の頬を包み込むように手を触れて、それからその指先で私のくちびるを掠める。
そうして目を細めたまま、私に触れたのと同じ指先で、自分のくちびるをなぞって見せた。

こんなのを、数年にわたって思いをつのらせて来た男に見せつけられて、こっちがどうにかなるとは思わなかったんだろうか?

妙な怒りにも似た感情を抱きながら、私は彼が求めるがままに、そっと上からブチャラティの鼻先に自分の鼻先をよせて――熱いばかりのその唇に、柔らかに口づけた。